2012年12月25日火曜日

腰や尻の痛さは相当のもの

魚島では、前に述べた用途に使う小屋を「テンノウカ」と言い、村のはずれに建っていたという。しかし実際に使われていたのは、話を聞いたおばあさんたちの、そのまた母親の娘時代だということだから、明治初期までだろう。また「サンヤ」は産家と書き、私か調べた地方では産祷期の風習のことをさす。さて魚島で「サンヤ」ができるのは、跡取りの嫁だけとされていた。妊娠中に他の家の離れなどを頼んでおき、お産をすませた後、新生児と若い母親が移り二一日間を過ごす。実母や姉妹が足しげく副食材料などを届け、水やまきなどの生活必需品も運ぶ。

このように、この風習は女性だけのネットワークに支えられ、一九三〇年代までは夫も参加してはいけなかった。その後、夫は夜だけ一緒に来て泊ることが許されぶようになり、大部分の女性が島外の病院などで出産するようになる一九七〇年代にはすたれた。「日頃気を遣いながら暮らす跡取りの嫁に、せめて産後だけはゆっくり気を遣わず養生させてやろう」という古くからの習わしであると、島の人たちは解釈している。

体験者は「跡取りの嫁だけに許された人生の花だった」(Iさん、一九〇五年、初産)、「一人目の時は、サンヤをしてもらったけれど、二人目、三人目はしませんでした。、上の子が年子だったので私ら(夫も)がおらんときっと淋しがりますけんね。それに漁が忙しい時でしたから、家にいたら台所くらい少々できますでしょう。周囲のもの(家族)は、済まん済まんと済まながってくれました」(Gさん、一九六一年、初産)と、サンヤをしてもらったことを喜んでいる。

同じサンヤでも、野忽那島では、出産直後から何日間かを、後ろにおいた四つ折り蒲団などにもたれて坐り続ける風習のことを言っている。一九一〇年頃まではその期間は一五日間で、その後、一週間になり、さらに三日間に短縮(一九二〇年代)、一九三〇年代には、ほとんどすたれてしまった。一九一〇年に初産をしたある女性(一八八四年生まれ)は、一五日間赤ん坊に乳を飲ますことと自分の排泄以外、ず1つとそこに坐り続けた。七人子どもを産んだが、毎回サンヤをしたそうだ。腰や尻の痛さは相当のもので、足を押ばしたり立てたり、それはそれは苦しかった。

だが、サンヤについてはそうすることによって、「古血かおり、出産によって騒いでいた血がおさまり、子宮がもとの状態に回復し、産婦が通常の生活にもどるために、とても大切なもの」として大変高く評価している。さらにこのサンヤを行なうには、赤ん坊のおむつの洗濯やサンヤにこもる女性の食事、身の回りの世話など、身内の女性たちの多大の助力を必要としたから、「みながよくしてくれたからサンヤができた。おかげで産後、私は婦人病などにならずにすんだし、今も元気でいられる」と、現在も島で近隣の人々や身内にみまもられながら一人暮らしを楽しんでおられる。