2013年11月6日水曜日

国内総生産量は幸福を計る最悪の尺度である

アメリカの「進歩の再定義財団」も、「真の進歩指数」と名付ける同様な指標を提唱している。この指数は、ボランティア活動の価値を加え、超過勤務による自由時間の損失も計算に入れている。(中略)アメリカでは一九五〇年代から一九七〇年までは、「真の進歩指数」は国内総生産に比例して上昇するが、それ以後は国内総生産とは決別し、下降をたどる。一九七〇年は、まさにアメリカ人の幸福度が下降しはじめた年である。イギリスでは、「持続可能経済的厚生福祉指数」に関して、同様な現象が見られる」

そして、「国内総生産量は幸福を計る最悪の尺度である」(リチャードーラヤード神父の言葉)という認識は徐々に一般化しており、それに代わる指数が模索されつつある、と結論している。トムキンス氏の論文には言及されていないが、国連開発計画(UNDP)が提案する「人間開発指数」(Human Development)もこうした新しい指数の一つとして付け加えることができるであろう。「国民総幸福」という理念は、こうした世界の動向の中で注目されている。これは、確かに第四代ブータン国王が提唱したものであるが、それは国王一人の個人的な考え方ではなく、一人一人のブータン人が持っている価値観を代表したものであろう。たとえば、アメリカの大学に留学中のブータン人学生はブータンの新聞『クェンセル』(一九九三年五月二九日付)に次のような文章を投書している。

「アメリカに着いてから三年になりますが、最近よく考えることは、ブータンが「発展途上国」であるということは、一体どういうことなのか、ということです。「先進国」になるということは、総合技術においてアメリカのようになることを意味するのだろうか。ブータン人も、誰もが車に乗り、冷暖房付の家に住み、ビデオ、冷蔵庫、電話等を持つようになったら、ブータンも「先進国」の仲間入りができるのだろうか。もしそうだとしたら、こうした恩恵を蒙るために、どんな代償を支払わねばならないのだろうか。そうした生き方は、仏教が説く無執着の教えとは、相容れないことではないか。さらには、我々の文化が伝統的に重んじてきた家族とか共同体といった価値を捨て、個人主義的に一人一人が富とか財産の蓄積に腐心するようになることを意味するのだろうか。だとしたら、そうすることは、ブータン人がブータン人でなくなることではないのか」

近代化・開発・発展といったブータンが直面している今日的な課題を前に、自分が生まれ育ったブータンの仏教に基づいた伝統的価値観から、深い問いかけをしている。続けてこうも述べている。「ブータンを訪れる外国人は、ブータン人は和やかで、生活にはくつろぎが感じられる、と決まって好意的・肯定的な印象を持つ。ブータン人は人生の本当の意義を見つけている、とかれらは言う。それなのに、こうして人間としての幸せを満喫しているブータン人が、自らの生活様式を捨てて、人生の楽しみを失ってしまった人たちのようになろうとするとしたら、それはあまりにも皮肉である。

アメリカ人の生活は腐敗している、などと言う気は毛頭ない。物質的恩恵は、確かに身体的な面では非常な快適さをもたらしてくれる。しかし、こと情緒面、精神面に関していえば、アメリカ人の多くは、ブータンの一般庶民に比べて、ずっと貧しい生活を営んでいる」ここには、近代化・経済発展といった事象を越えた、もう一つ別な高い価値基準があるように思える。それは理論的に構築された思想とか主義といったものではなく、素朴な、人間的な、「田舎者」の直感に近いものであるが、その頑強な骨組みをなしているのがブータンの伝統文化であり仏教であることは確かである。すでに紹介した第四代国王の王妃の一人ドルジエーワンモーワンチュックは自著で、自信を持ってこう述べている。