2013年12月25日水曜日

欧米の国をそのまま模範とできないことは事実

実際、私は日本人は意識的、無意識的に「和魂洋才」を明治以来今まで継続してきて、とうとうそれが続かなくなっだのが現在ではないか、と考えている。日本の教育のこれまでをそれなりの成功と評価するにしろ、それを成功せしめてきた「和魂」の在り方が、現在の困難点に大きくかかわっている。これからの日本の教育、学校の在り方を考えていく上で、日本文化ということをどうしても考慮にいれなければならない。日本の教育について論じるのは極めて困難であると最初に述べたのは、それを論じることはすなわち、日本人としての自分の生き方にかかわることであり、日本の教育の改革を考える際に、日本人としての自分の変革を棚上げにして考えることはできない、と思うからである。

問題の困難さを大きくする要因はもうひとつある。それは、経済における追いつけ追い越せの図式の問題点を既に指摘したが、教育においても、実のところ単純にモデルとしてあげられる教育などというのはない、と思われるからである。ひと頃は、アメリカや旧ソ連などを[理想国]のように言う人もあったが、現実をよく知ってみると、それをモデルにするべきだなどと決して言えなくなる。アメリカの教育が成功して、非行少年が少なくなったということはない。青少年の凶悪犯罪とか、麻薬常習者などを調べると、アメリカの方が日本よりはるかに多い。暴力が問題となるアメリカの高校では、ピストルをもった警官が常時校内を警濯している状況である。アメリカの中学校で日本の制服制度を取り入れようとしたところがあったのも周知のとおりである。

欧米の国をそのまま模範とできないことは事実である。しかし、日本はこれまでできる限り欧米の考え方や教育の方法などを取り入れてきたし、今後もそれをある程度は続けていかねばならぬことも認識しておかねばならない。特に今、日本の教育の改革を考えようとする多くの人が、子どもの「個性の尊重」を取りあげ、子どもが主体的に自分の考えを発展させそれを表現できるような教育の重要性を強調する点を考えると、ますますそうである。日本は相当に欧米化されているが、その根本のところでは、まだまだ日本的なものを引きずっている。そのことの善悪は簡単に判定できないにしろ、ともかくそのことを明確に認識することは大切だと思われる。その上に立って「改革」を考えるのでなければ、結局は小手先のことになってしまうであろう。

人間社会はその秩序を維持し、個人の安全を守るためにいろいろな工夫をし、それを制度としてもっている。いずれにしろ一長一短で「理想的」なものはないとさえ考えられる。無理に理想を追い求めて制度化を行うと、かえって多くの不都合が生じることは、人間の歴史が教えてくれている。一見して問題をもつような制度にしても、全体として考えると、それなりの意義をもっている。日本のかつての身分制度などもそのひとつであろう。その不平等性という点で問題なことは論ずるまでもないし、だからこそ日本は身分制度を廃止した。しかし、日本人の心のなかには、それはまだまだ尾を引いているようだ。

身分を廃止し、すべての人は平等であるというとき、権利や義務などにおいては平等でも、人間には個人差があって、能力差があることは認めねばならない。欧米においては、個人の能力差の存在を前提として、教育が考えられる。ヨーロッパでは小学校でいわゆる「とび級」があるのみならず、「落第」もあることは、あんがい日本で知られていない。フランスでは小学校六年間で一度も落第しない子どもの方が少ないとのことである。このようなことは日本では考えにくい。日本人のもつ絶対平等感は能力差の問題を無視する傾向をもっている。最近は、このような点が大分認識されてきたが、これまでは能力差に言及することは「差別」であると誤解されることが多かったので、常に相当な慎重さを必要とした。これは、いかなる差も「身分」の差に関連づけて考えてしまうほど、日本人が「身分」ということに縛られていることを示している。