2014年12月18日木曜日

共同体的資本主義の社会

共同体志向の資本主義にも個人や企業の目標はあるが、前提がまるでちがう。労働者は企業という名のチームの一員であり、チームの成功なくして個人の成功はありえない。個人にとって大切なことは、自分にふさわしいチームを選ぶことだ。いったんチームを選んだあとは、個人の成功・不成功は選んだチームすなわち企業の成功・不成功と密接に結びつく。アングローサクソンの社会では、企業に対する忠誠心などと言っても、うさんくさい視線を浴びるだけだ。個人の成功は個人の手柄であって、チームのおかげではない。

ドイツや日本では、アメリカやイギリスにくらべて転職率がはるかに低い。共同体的資本主義においては、労働移動率は低いほうが望ましいとされる。リンゴの実がなるころに自分はそこにいないだろうと思えば、誰もリンゴの木を植えたり(企業のために自己犠牲を払ったり)はしないだろう。反対にアメリカやイギリスでは、労働移動率が高いのはいいことだと考える。労働者を解雇するのは企業にとって不要な労働力を切り捨てることだし、労働者の側から見れば会社を辞めるのはより賃金(生産性)の高い仕事に就くチャンスだ。退職であろうと解雇であろうと、労働移動率は効率と同義語なのだ。

企業の目標を決める際に、誰の利益を優先させるか。個人主義的資本主義と共同体的資本主義では、答えが全然ちがう。日本の企業では、まず何よりも従業員の利益を第一に考える。つぎが顧客の利益。そのあとかなり水が空いて、株主の利益がある。アングローサクソン系の企業では、株主の利益以外に考慮すべき利益はない。従業員の利益を第一に考える日本の企業では、従業員に少しでも高い賃金を支払うことが企業のいちばんの目的だ。賃金や雇用を維持するためならば、利益を犠牲にする。株主への配当は少ない。

共同体的な価値観を重んずる社会では、労働者の技能を向上させるための投資は企業の責任である。これに対して、アメリカやイギリスでは、技能の向上は労働者個人の責任だ。企業の目的は高い技能をできるだけ安い賃金で雇って経営効率を高めることにある。労働者は会社と利害を共有する存在ではない。労働者は単に生産の一要素にすぎず、必要なときに雇って不要になったら解雇するだけのことだ。

個人の目標と企業の目標に加えて、共同体的資本主義の社会ではあとふたつ、レベルの異なる目標がある。三井グループやドイツ銀行グループのような企業グループには、グループ全体の戦略目標がある。グループ内の企業は財政面で手を結び合い、おたがいの事業がやりやすいように協力し合う。日本の場合、「系列」には部品会社、メーカー、販売会社というタテの系列と、さまざまな産業分野の企業が集まったヨコの系列とがある。