2015年5月22日金曜日

集落再生プログラムに向けて

あるいは、すでにふるさとを失った人間にとっても、本来、日本社会を構成する重要な基盤であったむらや町といった地域社会を、自分自身を含めて今後、どのように社会全体として受け継ぎ、日本という社会をどんなふうに設計したいのか、他者の問題ではなく、自分白身の問題として問うことでもある。そしてもし、こうした問いから出発できるのなら、これまでのような、「かわいそうな高齢者をどう救うのか」とか、「効率性の悪い地域には消えてもらえ」とかいうものとは全く異なる方向で限界集落論を考えることができるようになるはずだ。それは国家発・経済発・専門家発の議論ではなく、集落発・家族発、そして何よりも個々の暮らしの中から発する議論になるだろう。

集落再生を考えるに当たって以下の後半では、筆者が関わってきた、青森県におけるいくつかの具体的事例を示しながら、限界集落問題をうまく切り抜けていくために、今後に向けて何が必要なのか、集落再生のためのプログラムについて整理していきたい。まず、この問題を考えるための深い材料を筆者に与えてくれた調査地の一つ、青森県西津軽郡鯵ヶ沢町にある深谷地区を訪ねることにしたい。ここで紹介するのは一見、些末な事実の積み重ねだが、主要論点につながっているので、ややわずらわしくとも、筆者はこの地で考えたことを示しておく必要がある。論理発の再生論ではなく、フィールド発の再生論を構築するためにはどうしても必要な手続きなのである。

最初に、集落再生を模索するに当たって、筆者自身が重視した二つの点を述べておこう。第一点目として、限界集落をいくつもまわってみて分かるように、実際の集落の状態は、いまだにいたって健全だということである。では、この健全さはいかなる根拠に基づくのだろうか。そしてもう一点は、集落再生のプログラムといっても、何を起点にそれを進めるべきか、という問題である。この第二点目について、もう少し詳しく述べておきたい。過疎問題の歴史をたどれば、そこには異様なほどの国の関わりがあり、これまでの過疎対策がつねに国主導で動かされてきたことを実感する。そして、これまでの地域再生をめぐる枠組みも、基本的には国の側でメニューが作成され、行政機関がそれを受けて各集落に示し、事業への参加が促されるというスタイルがとられてきた。過疎問題解決のプログラムはこれまで、その起点は国や行政の側にあって、当の集落や住民の側にはなかったと言ってよい。

このことは研究者や専門家と呼ばれる人間の側でも同じであったように思う。議論はつねに専門家の側から始まった。近年ではNPOや市民による事業においても同様だろう。地域に暮らす住民の側からすれば、どこか雲の上の遠いところで議論がなされ、問題点が提示され、また何をすればよいかのメニューも示されてきた。しかもそこには、しばしば資金まで用意されていて、自分たちはただついていけばよく、かつては従ってさえいればお小遣いさえもらえることもあったわけだ。二〇〇〇年代の行財政改革以降、最後の資金面については制約がかかるようになり、自己資金を要求されたり、強い監査が入ったりと厳しくはなったが、メニューが向かう側から下りてくる構図は依然として変わっていない。

これについては、当の住民側にも問題はあった。こうした補助金行政・メニュー行政に慣らされてきたため、それが当たり前と考えるようになり、身近な市町村の担当者とのやりとりでさえも、最後は「役場は何をしてくれるのか」としか話ができないようになっていた。専門家に対しても同じだ。問題解決のために何をしたらよいか、答えを出してくれるのを期待するだけで終わってきた。集落再生プログラムを考えるに当たっては、こうした根本のところからの発想の転換が必要である。集落の外や雲の上ではなく、限界集落とされるその場所から発する再生論を構想しなければならない。過疎・少子高齢化の現場で、これまで何が生じ、これから何が起きようとしているのか。この問題に関わる人々が、いま何を考え、どんな行動をし、どこを目指しているのか。こうしたことを起点にした集落再生論である。