2015年6月17日水曜日

アメリカのネオコン

プルタークの『英雄伝』の名のほうで知られている『列伝』で、著者プルタルコスがこのアレクサンダーと対比して書いているユリウス・カエサルが行ったガリア戦役も、「大義」ということになると怪しい。この人の場合は、先制攻撃と言えないこともない。侵略してきたわけでもないガリアに攻めこむカエサルの大義とは、ゲルマン民族に押されているガリアの諸部族の現情を放置していては、ゲルマンに押しこまれたガリア人が逃げ道を求めるあまり、その南にあるローマ領になだれこんでくる、というものであったからだった。

ただし、まだそのような状態にまでなっていなかったガリア人にしてみれば、カエサルの軍団を迎え撃つ大義は充分にある。そしてこの場合も、結果を決めたのは軍事力だった。しかし、この二人が他の数多の侵略者と同一視されずに歴史上の英雄になったのは、戦争に勝って以後に、主観的な大義を客観的な大義に変えるということをしたからである。ほんとうの意味ならば存在しなかった大義を、ほんとうの、つまりは敗者さえも納得する大義に変えたのであった。

アレクサンダーは、自ら率先して一万人もの部下とともに、ペルシアの女との結婚式を戦争の大義について行った。もはやギリシアもペルシアもない。両者ともアレクサンダーの帝国には、対等の立場で参加するのだという意志の表明である。若き将軍が築こうとしたのは、新秩序であったのだ。カエサルもまた、この考えを踏襲している。ガリア人は奴隷にされず、有力者たちにはローマ市民権が与えられ、部族の長ともなると、現代の国会に該当する元老院の議席まで与えられたのだった。こうしてガリア人も、「パクスーロマーナ」というローマ人の大義の一翼をともに荷なうようになっていく。「ローマによる平和」以外の何ものでもない「パクスーロマーナ」だが、あれも新秩序であったのだった。

こう見てくると今のアメリカのネオコンも、最終目標としては「パクスーアメリカーナ」を打ち立てようとしているのかと思えてくるが、アメリカ人は、プルタルコスによればローマ強大化の主因であったという、敗者同化にまでいけるのであろうか。しかし、われわれ日本人は、「アメリカによる平和」であろうと何であろうと、国際情勢を左右できる政治力もなければ経済力もなく、ましてや軍事力もない。そのうえ、第二次大戦当時には日本なりにはあった大義でさえも、敗戦後の戦犯裁判で、大義ではないとされた経験をもつ。ほんとうならば「大義」と言われただけでせせら笑ってもよいくらいなのに、その日本人の口からイラク戦争には大義はないなどという議論が出るのだから失笑ものである。

大義などはないのだ。といって、新秩序をつくる力はもっていない。この現実を見極めれば、やれることは限られてくる。他の国が大義と言おうが日本だけは心中でせせら笑い、それでいながら冷徹に国益を考え、その線で行動することだけである。いまだ前哨部隊とはいえ中東の地に足を踏み入れた自衛隊員の姿は、イタリアのテレビニュースでもしばしば見かけるようになった。世界平和が目的の海外派兵でも国営テレビでドラマ化されて高視聴率を稼ぐイタリアなので、日本の派兵も、新らしいお仲間登場という感じで受けとられている。ただし、お仲間は他にも多いはずなのに少々特別あつかい気味なのは、主要国である日本もようやく家の外に出てくる気になったという想いがあるからだろう。それを見る私の頭の中は、ごく自然に、防衛大の卒業式で来賓として祝辞をのべた十年前にもどっていた。