プルタークの『英雄伝』の名のほうで知られている『列伝』で、著者プルタルコスがこのアレクサンダーと対比して書いているユリウス・カエサルが行ったガリア戦役も、「大義」ということになると怪しい。この人の場合は、先制攻撃と言えないこともない。侵略してきたわけでもないガリアに攻めこむカエサルの大義とは、ゲルマン民族に押されているガリアの諸部族の現情を放置していては、ゲルマンに押しこまれたガリア人が逃げ道を求めるあまり、その南にあるローマ領になだれこんでくる、というものであったからだった。
ただし、まだそのような状態にまでなっていなかったガリア人にしてみれば、カエサルの軍団を迎え撃つ大義は充分にある。そしてこの場合も、結果を決めたのは軍事力だった。しかし、この二人が他の数多の侵略者と同一視されずに歴史上の英雄になったのは、戦争に勝って以後に、主観的な大義を客観的な大義に変えるということをしたからである。ほんとうの意味ならば存在しなかった大義を、ほんとうの、つまりは敗者さえも納得する大義に変えたのであった。
アレクサンダーは、自ら率先して一万人もの部下とともに、ペルシアの女との結婚式を戦争の大義について行った。もはやギリシアもペルシアもない。両者ともアレクサンダーの帝国には、対等の立場で参加するのだという意志の表明である。若き将軍が築こうとしたのは、新秩序であったのだ。カエサルもまた、この考えを踏襲している。ガリア人は奴隷にされず、有力者たちにはローマ市民権が与えられ、部族の長ともなると、現代の国会に該当する元老院の議席まで与えられたのだった。こうしてガリア人も、「パクスーロマーナ」というローマ人の大義の一翼をともに荷なうようになっていく。「ローマによる平和」以外の何ものでもない「パクスーロマーナ」だが、あれも新秩序であったのだった。
こう見てくると今のアメリカのネオコンも、最終目標としては「パクスーアメリカーナ」を打ち立てようとしているのかと思えてくるが、アメリカ人は、プルタルコスによればローマ強大化の主因であったという、敗者同化にまでいけるのであろうか。しかし、われわれ日本人は、「アメリカによる平和」であろうと何であろうと、国際情勢を左右できる政治力もなければ経済力もなく、ましてや軍事力もない。そのうえ、第二次大戦当時には日本なりにはあった大義でさえも、敗戦後の戦犯裁判で、大義ではないとされた経験をもつ。ほんとうならば「大義」と言われただけでせせら笑ってもよいくらいなのに、その日本人の口からイラク戦争には大義はないなどという議論が出るのだから失笑ものである。
大義などはないのだ。といって、新秩序をつくる力はもっていない。この現実を見極めれば、やれることは限られてくる。他の国が大義と言おうが日本だけは心中でせせら笑い、それでいながら冷徹に国益を考え、その線で行動することだけである。いまだ前哨部隊とはいえ中東の地に足を踏み入れた自衛隊員の姿は、イタリアのテレビニュースでもしばしば見かけるようになった。世界平和が目的の海外派兵でも国営テレビでドラマ化されて高視聴率を稼ぐイタリアなので、日本の派兵も、新らしいお仲間登場という感じで受けとられている。ただし、お仲間は他にも多いはずなのに少々特別あつかい気味なのは、主要国である日本もようやく家の外に出てくる気になったという想いがあるからだろう。それを見る私の頭の中は、ごく自然に、防衛大の卒業式で来賓として祝辞をのべた十年前にもどっていた。
2015年5月22日金曜日
集落再生プログラムに向けて
あるいは、すでにふるさとを失った人間にとっても、本来、日本社会を構成する重要な基盤であったむらや町といった地域社会を、自分自身を含めて今後、どのように社会全体として受け継ぎ、日本という社会をどんなふうに設計したいのか、他者の問題ではなく、自分白身の問題として問うことでもある。そしてもし、こうした問いから出発できるのなら、これまでのような、「かわいそうな高齢者をどう救うのか」とか、「効率性の悪い地域には消えてもらえ」とかいうものとは全く異なる方向で限界集落論を考えることができるようになるはずだ。それは国家発・経済発・専門家発の議論ではなく、集落発・家族発、そして何よりも個々の暮らしの中から発する議論になるだろう。
集落再生を考えるに当たって以下の後半では、筆者が関わってきた、青森県におけるいくつかの具体的事例を示しながら、限界集落問題をうまく切り抜けていくために、今後に向けて何が必要なのか、集落再生のためのプログラムについて整理していきたい。まず、この問題を考えるための深い材料を筆者に与えてくれた調査地の一つ、青森県西津軽郡鯵ヶ沢町にある深谷地区を訪ねることにしたい。ここで紹介するのは一見、些末な事実の積み重ねだが、主要論点につながっているので、ややわずらわしくとも、筆者はこの地で考えたことを示しておく必要がある。論理発の再生論ではなく、フィールド発の再生論を構築するためにはどうしても必要な手続きなのである。
最初に、集落再生を模索するに当たって、筆者自身が重視した二つの点を述べておこう。第一点目として、限界集落をいくつもまわってみて分かるように、実際の集落の状態は、いまだにいたって健全だということである。では、この健全さはいかなる根拠に基づくのだろうか。そしてもう一点は、集落再生のプログラムといっても、何を起点にそれを進めるべきか、という問題である。この第二点目について、もう少し詳しく述べておきたい。過疎問題の歴史をたどれば、そこには異様なほどの国の関わりがあり、これまでの過疎対策がつねに国主導で動かされてきたことを実感する。そして、これまでの地域再生をめぐる枠組みも、基本的には国の側でメニューが作成され、行政機関がそれを受けて各集落に示し、事業への参加が促されるというスタイルがとられてきた。過疎問題解決のプログラムはこれまで、その起点は国や行政の側にあって、当の集落や住民の側にはなかったと言ってよい。
このことは研究者や専門家と呼ばれる人間の側でも同じであったように思う。議論はつねに専門家の側から始まった。近年ではNPOや市民による事業においても同様だろう。地域に暮らす住民の側からすれば、どこか雲の上の遠いところで議論がなされ、問題点が提示され、また何をすればよいかのメニューも示されてきた。しかもそこには、しばしば資金まで用意されていて、自分たちはただついていけばよく、かつては従ってさえいればお小遣いさえもらえることもあったわけだ。二〇〇〇年代の行財政改革以降、最後の資金面については制約がかかるようになり、自己資金を要求されたり、強い監査が入ったりと厳しくはなったが、メニューが向かう側から下りてくる構図は依然として変わっていない。
これについては、当の住民側にも問題はあった。こうした補助金行政・メニュー行政に慣らされてきたため、それが当たり前と考えるようになり、身近な市町村の担当者とのやりとりでさえも、最後は「役場は何をしてくれるのか」としか話ができないようになっていた。専門家に対しても同じだ。問題解決のために何をしたらよいか、答えを出してくれるのを期待するだけで終わってきた。集落再生プログラムを考えるに当たっては、こうした根本のところからの発想の転換が必要である。集落の外や雲の上ではなく、限界集落とされるその場所から発する再生論を構想しなければならない。過疎・少子高齢化の現場で、これまで何が生じ、これから何が起きようとしているのか。この問題に関わる人々が、いま何を考え、どんな行動をし、どこを目指しているのか。こうしたことを起点にした集落再生論である。
集落再生を考えるに当たって以下の後半では、筆者が関わってきた、青森県におけるいくつかの具体的事例を示しながら、限界集落問題をうまく切り抜けていくために、今後に向けて何が必要なのか、集落再生のためのプログラムについて整理していきたい。まず、この問題を考えるための深い材料を筆者に与えてくれた調査地の一つ、青森県西津軽郡鯵ヶ沢町にある深谷地区を訪ねることにしたい。ここで紹介するのは一見、些末な事実の積み重ねだが、主要論点につながっているので、ややわずらわしくとも、筆者はこの地で考えたことを示しておく必要がある。論理発の再生論ではなく、フィールド発の再生論を構築するためにはどうしても必要な手続きなのである。
最初に、集落再生を模索するに当たって、筆者自身が重視した二つの点を述べておこう。第一点目として、限界集落をいくつもまわってみて分かるように、実際の集落の状態は、いまだにいたって健全だということである。では、この健全さはいかなる根拠に基づくのだろうか。そしてもう一点は、集落再生のプログラムといっても、何を起点にそれを進めるべきか、という問題である。この第二点目について、もう少し詳しく述べておきたい。過疎問題の歴史をたどれば、そこには異様なほどの国の関わりがあり、これまでの過疎対策がつねに国主導で動かされてきたことを実感する。そして、これまでの地域再生をめぐる枠組みも、基本的には国の側でメニューが作成され、行政機関がそれを受けて各集落に示し、事業への参加が促されるというスタイルがとられてきた。過疎問題解決のプログラムはこれまで、その起点は国や行政の側にあって、当の集落や住民の側にはなかったと言ってよい。
このことは研究者や専門家と呼ばれる人間の側でも同じであったように思う。議論はつねに専門家の側から始まった。近年ではNPOや市民による事業においても同様だろう。地域に暮らす住民の側からすれば、どこか雲の上の遠いところで議論がなされ、問題点が提示され、また何をすればよいかのメニューも示されてきた。しかもそこには、しばしば資金まで用意されていて、自分たちはただついていけばよく、かつては従ってさえいればお小遣いさえもらえることもあったわけだ。二〇〇〇年代の行財政改革以降、最後の資金面については制約がかかるようになり、自己資金を要求されたり、強い監査が入ったりと厳しくはなったが、メニューが向かう側から下りてくる構図は依然として変わっていない。
これについては、当の住民側にも問題はあった。こうした補助金行政・メニュー行政に慣らされてきたため、それが当たり前と考えるようになり、身近な市町村の担当者とのやりとりでさえも、最後は「役場は何をしてくれるのか」としか話ができないようになっていた。専門家に対しても同じだ。問題解決のために何をしたらよいか、答えを出してくれるのを期待するだけで終わってきた。集落再生プログラムを考えるに当たっては、こうした根本のところからの発想の転換が必要である。集落の外や雲の上ではなく、限界集落とされるその場所から発する再生論を構想しなければならない。過疎・少子高齢化の現場で、これまで何が生じ、これから何が起きようとしているのか。この問題に関わる人々が、いま何を考え、どんな行動をし、どこを目指しているのか。こうしたことを起点にした集落再生論である。
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