2014年5月23日金曜日

人生は思惑どおりにいかない

健康を維持するための黄金律は実は存在しない。遺伝子の問題などもからむので、本人の努力だげですべてを解決できないのもつらいところだ。やや消極的ではあるが、現代人として、健康にょいとされることを常識の範囲で実行するのがよいだろう。また、年一回の健康診断を受け、自分の健康状態を把握したい。そうすれば、成人病やガソ、心臓血管系の病気の早期発見にもつながる。

当然のことだが、人生には思惑どおりにいかないこともある。いや、むしろ、思惑どおりにいかないのが人生ともいえるだろう。若い時から好きだった山登りを、「さあ、定年後はじっくり楽しむぞ」と心待ちにしていても、足腰に故障が出れば、思う存分というわけにもいかない。そんなとき、どうやって次なる楽しみを見つけるかは、その人の人生観次第である。「ああ、足腰も弱って、おもしろいこともないし」と嘆くか、「それなら、自分の家で楽しめる趣味もあるだろう」と積極的に考えるかが、その後の生き方を決めるのだ。

健康状態にしても、積極的に成人病と取り組む人は、ひとつの病気のケアがかえって健康管理につながってよい結果を生むケースも多いものだ。健康に恵まれて老年期を迎えた人でも、できるだけ規則正しい生活を心掛け、睡眠、運動、食事のバランスを守り、ストレスに上手に対応する、といった生活が望ましいのはいうまでもないが、これは年代を問わず有効である。生活とは、このようなありふれた常識の積み重ねの結果なのだ。

こういった前向きの人生観があってこそ、社会保障の値打ちも生きてくる。逆の見方をすれば、どんなに社会保障が発達しても、社会保障だけでは解決できない問題もある、ということだ。社会保障の行方を問題にしたが、最後に残るのは、やはり私たち自身の生き方という実に平凡にして永遠のテーマである。

2014年5月3日土曜日

銀ばえは死なず

先月(十一月)背中に鈍い痛みが走って取れないので、池尻大橋の病院で診てもらったら、心筋梗塞だといわれて、即刻入院させられた。入院して、心臓カテーテル検査というのを受けた。これは、股の付け根から心臓まで、動脈内にカテーテル(細い管)を挿入して、そのカテーテルから造影剤を放出して写真を撮り、心臓の動きや、血液の流れを調べるという検査であった。

検査の翌日には院内の歩行が許可されたが、九日間入院した。その入院中に、福田幡存さんが亡くなった。私はいったん退院して、今月八日に、こんどはPTCAという治療を受けるために、再び入院した。PTCAというのは、心臓カテーテル検査と同じように、動脈の中にカテーテルを挿入するが、その先に小さな風船をつけ、その風船をふくらませて、血管の細くなっている部分を押しひろげて血液の流れをよくするという治療である。

二度目の入院は、五日間ですんだ。けれども日が重なって、福田さんの告別式に参列できなかった。福田さんは、四十年来、尊敬し、愛読し、たまにはお目にかかって話をうかがった先輩である。けれども、最近は、疎遠になっていた。年賀状だけは毎年交換していたが、今年はいただけなかった。昨年の年賀状に、福田さんは、文壇論壇、美術界すべて、もうどうしようもなくダメだ、音楽はまだ希望が持てる、音楽は科学だから、と書かれていた。そういえば福田さんは、最近、発言なさらない。物言うことがむなしくて、口を絨してしまったのだ、と思った。

しかし、福田さんが口をつぐんだのでは、この国は、ますますダメになる。戦後、進歩的文化人といわれるどうしようもない人たちが輩出したが、福田さんは彼らを斬りまくった。だからといって、彼ら流の思考が消滅したわけではない。学徒兵の戦争責任を問うシンポジウムを開いた「わたつみ会」などに、進歩的文化人思考が受けつがれているのではないか。今は、つくば市の母子殺し事件についで、中学のいじめ問題が連日テレビで騒がれている。

佐藤愛子さんは芸能レポーターを、うんこにたかる銀ばえ、と言ったそうだが、その言葉を借りると、ワイドショーのキャスター、レポーター、すべて銀ばえである。オス銀ばえ、メス銀ばえが走りまわって、刑事のように犯人を探し責め立てる。学校を責め、家庭を責め、社会を責める。悪者よ責任を感じているのか、と銀ばえは正義の権化となる。あの責め方と正義の装い、あれは進歩的文化人思考のパターンではないか。つまりは、あれが日本人好みの思考のかたちなのかもしれないな、とさえ思えてくる。