2014年6月12日木曜日

貴重な回り道

底辺の活動家たちはこの論文に肯定的な評価を与えてくれた。それはこれらの活動家の声を、私が多くとり上げていたからである。しかし大学に籍を置く人たちからは、あの論文は「ドロ臭い」という、さげすんだ評価を受けた。あの時、私は大学に籍を置いていなかった。ある私立高校とデザイン学校との講師をしながら、運動をしたり翻訳をしたり物を書いていた。

あの論文を「ドロ臭いけれども新しい芽がある」と激励してくれたのは、雑誌「中央公論」の編集者をしていたH氏であった。あの小さな論文に少しでも取り柄があったとしたら、それは私が当時左翼の立場にありながら、硬直化したマルクスの理論に頼らなかったことではないか。新鮮な芽があったとすればマルクスにとらわれないで、また運動に決定的な影響力を持っていた共産党に遠慮しないで、経験的事実を語ったことではなかったか。

それだけでなく私は運動に突っ込み、底辺のドロ臭い現場を駆けずり回ったことで、大学の研究室では、絶対に学べなかった何物かを学ぶことができたと今でも信じている。その何事かとは、きれい事ではない社会の現実のなかに動いている、人間関係の原理といったものである。その何事かを学んだために、経験的世界とのかかわりを失ったドグマや、美辞麗句に迷わされない物の見方を、少しは身につけることができたのではないかと思う。

あの「思想」の論文を書いた後、私は一九六〇年の、日米安保条約反対運動に参加することになった。しかしその運動の挫折の過程で私は、左翼の運動に徹底的に愛想を尽かしてしまった。その挫折と絶望の底で私を支えてくれたものは、同じような経験をした友人たちと作った、「現代思想研究会」というグループであった。あの研究会には左翼運動に絶望した優れた友人たちが集まってきた。

そこで私はマルクス主義批判だけでなく、新しい近代化の理論などに触れた。そして新しい歴史観を徐々に構築していったのである。つまり経験の世界で挫折したため、私は抽象的な理論の世界に戻ることになった。そしてこの抽象の世界での学習を通じて、私は新しい回心を遂げることになった。それは新しい理論を獲得することによって、それまでの経験に新しい光を当てて整理し直す過程だった。私にとってその後のアメリカでの研究活は、この回心の過程を完成させることになった。