2014年7月25日金曜日

円・ドルの新しい展開

これも必ずしも順調なものではなく、一九九二年九月にはイギリスーポンドとイタリアーリラがERMから離脱し、九三年八月には原則二・二五%に設定される変動幅を一時的に一五%拡大して再調整し、九五年三月にはスペイン・ペセタの七%切下げ、ポルトガルーエスクードの三・五%の切下げなど(ペセタとエスクードは九二年、九三年にも切り下げられている)が起こっている。

九五年の通貨変動では、マルク、フラン、ポンドといった主要通貨も大きく乖離する。通貨統合も九四年には第二段階に移行してEMI(ヨーロッパ通貨機構)が設立されたが、必ずしも順調ではない。このような動きは、ドルから離れた通貨ブロックの形成になっている。後で述べるが、ドル自身もアメリカを中心とした通貨ブロック的様相をみせ始めている。為替変動の経済的攬乱からいかに回避するかに関して、もっとも強い影響を受けている日本にとって重要なポイントであり、今後、円圏の形成という問題を避げることができない状況になる。

このような状況は日本経済に大きな攬乱を与える。九三年春には日本経済はバブル崩壊不況から脱したように見えた。しかし、円高が急速に進み、一ドル=一〇〇円をうかがう。そして、日本経済はゼロ成長に戻る。一旦落着きを取り戻したように見えた円は九四年夏に一ドル=一〇〇円を切り、超円高時代への到来を印象づけた。この円高は日本企業に本質的な変革をもたらした。第五章で詳しく述べるが、生産拠点を海外へ移し、根本的な円高対応を行うことになる。

そして、一九九五年に入ると、阪神・淡路大震災など円安要因となるような事件が起こったにもかかわらず急速な円高が進み、四月一九日には一瞬、一ドル=八〇円を切ることになる。すぐに八〇円台に戻るが、多くの驚きをもって見られた。数ヵ月間に二割も切り上がるという「異常な円高」であった。

この円高はこれまでと異なった現象であった。この急速な円高に対して、日本政府は「円高対策」を表明するとともに、日銀は公定歩合を〇・七五%引き下げて一%とした。しかし、これらの効果はまったく示されず、一ドル0八〇円を切る円高を許すことになる。財政金融政策をフル出動させ、規制緩和五ヵ年計画を三ヵ年に短縮して規制緩和を推進することとなったが、これまでも効果がなかった「対策」に効果があるはずはなかった。そして、五月から八月にかけて協調介入が行われるとともに、大蔵省が資本輸出促進案を示して九〇円台後半から一〇〇円程度になり一応の落着きを見せる。

2014年7月11日金曜日

プレトン・ウッズ体制

これまでも、円高は常に「異常」と見られてきた。円高が安定するのはむしろ稀なケースであり、時にはオーバーシュートするために円安に戻るが、再び円高傾向となる。一時的な円高が「異常」であったことは何回もあった。しかし、中期的・長期的に見れば、異常と見られた円高傾向は着実に継続して、長期的に見れば「正常」な円高になった。これまでの「異常な円高」という表現は、まさに「正常」に復帰するのではないかという「願望」の反映であった。しかし、多くの人々の期待に反して「正常な円高」であることが少なくなかった。

戦後の為替レートの動きを少し振り返ってみる。前回で述べたように、戦後の日本経済の出発はドッジーライソでの一ドル九二六〇円から始まった。一九五二年にIMFに加盟して、いわゆるプレトン・ウッズ体制の固定相場制度のなかで日本経済は運営され、固定相場制度の下で経常収支赤字を発生させないように財政金融政策が総動員されてきた。プレトン・ウッズ体制では、アメリカが金一トロイオンス=三五ドルの交換比率で公的な資金についてドルの金兌換性を保障し、これを背景に各国がドルにペッグすることで金=ドル本位制として為替レートが固定化されていた。

この体制を終焉させたのは一九七一年八月のニクソン元大統領による金交換停止宣言、すなわちニクソソーショックであった。各国で為替市場が閉鎖されるなどの大混乱が起こった。そして、混乱が一応の収束を見せた同年コー月、主要国の蔵相・中央銀行総裁がアメリカのスミソニアン博物館に集まり、新しい為替レートの下での固定相場制が図られ、一ドル=三〇八円か設定される。スミソニアソーレートと呼ばれた。

しかし、このスミソニアン体制も発足の時から長続きするとは思われておらず、結局、七三年には変動相場制に移行する。この間、日本国内では円高は日本経済を潰すという円高への恐怖心から「調整インフレ論」が提起されるなど、円高回避が経済政策の最大の目標となった。ところが変動相場制に移行するとほぼ同時に石油危機が発生し、石油代金の支払いから経常収支赤字になって円安となり、その後の為替レートぱおおむね一ドル一二〇円程度の水準で推移する。

しかし、日本経済の回復とともに再び経常収支は黒字に転換し、一九七六年には円安の下で三七億ドルの黒字となった。先進各国では経常収支赤字が継続するなか、日本だけが黒字となり、非産油国の石油価格高騰による経常収支赤字の分担を要求された。七七年からぱ黒字への転換を受けて、急速に円高となる。これに対して、アメリカのカーター大統領は七八年一月、ドル防衛策を打ち出す。しかし、この時はほとんど効果がなく、介入がいかに非力であるかを世界中に印象づけた。