2014年7月11日金曜日

プレトン・ウッズ体制

これまでも、円高は常に「異常」と見られてきた。円高が安定するのはむしろ稀なケースであり、時にはオーバーシュートするために円安に戻るが、再び円高傾向となる。一時的な円高が「異常」であったことは何回もあった。しかし、中期的・長期的に見れば、異常と見られた円高傾向は着実に継続して、長期的に見れば「正常」な円高になった。これまでの「異常な円高」という表現は、まさに「正常」に復帰するのではないかという「願望」の反映であった。しかし、多くの人々の期待に反して「正常な円高」であることが少なくなかった。

戦後の為替レートの動きを少し振り返ってみる。前回で述べたように、戦後の日本経済の出発はドッジーライソでの一ドル九二六〇円から始まった。一九五二年にIMFに加盟して、いわゆるプレトン・ウッズ体制の固定相場制度のなかで日本経済は運営され、固定相場制度の下で経常収支赤字を発生させないように財政金融政策が総動員されてきた。プレトン・ウッズ体制では、アメリカが金一トロイオンス=三五ドルの交換比率で公的な資金についてドルの金兌換性を保障し、これを背景に各国がドルにペッグすることで金=ドル本位制として為替レートが固定化されていた。

この体制を終焉させたのは一九七一年八月のニクソン元大統領による金交換停止宣言、すなわちニクソソーショックであった。各国で為替市場が閉鎖されるなどの大混乱が起こった。そして、混乱が一応の収束を見せた同年コー月、主要国の蔵相・中央銀行総裁がアメリカのスミソニアン博物館に集まり、新しい為替レートの下での固定相場制が図られ、一ドル=三〇八円か設定される。スミソニアソーレートと呼ばれた。

しかし、このスミソニアン体制も発足の時から長続きするとは思われておらず、結局、七三年には変動相場制に移行する。この間、日本国内では円高は日本経済を潰すという円高への恐怖心から「調整インフレ論」が提起されるなど、円高回避が経済政策の最大の目標となった。ところが変動相場制に移行するとほぼ同時に石油危機が発生し、石油代金の支払いから経常収支赤字になって円安となり、その後の為替レートぱおおむね一ドル一二〇円程度の水準で推移する。

しかし、日本経済の回復とともに再び経常収支は黒字に転換し、一九七六年には円安の下で三七億ドルの黒字となった。先進各国では経常収支赤字が継続するなか、日本だけが黒字となり、非産油国の石油価格高騰による経常収支赤字の分担を要求された。七七年からぱ黒字への転換を受けて、急速に円高となる。これに対して、アメリカのカーター大統領は七八年一月、ドル防衛策を打ち出す。しかし、この時はほとんど効果がなく、介入がいかに非力であるかを世界中に印象づけた。