2013年7月8日月曜日

蕎に懲りて膳を吹いてきた日銀

そうした状況に対して、濃口雄幸首相や井上準之助蔵相の民政党内閣は、「産業の合理化」と「構造改革」を推し進め、金本位制への復帰を断行する。しかし、金との兌換比率が、円高水準に設定されたため、実質的に円高の状況を招くことになる。まさに昨今の状況と同じく、円高、デフレ、不況の泥沼に陥ったのである。国民所得が二割以上も減り、卸売物価が三割も下がるという未曾有のデフレ恐慌だった。昭和恐慌である。演口内閣の行った金本位制への復帰(金解禁と呼ばれた)は、日本経済に大きなダメージを与えただけでなく、それによる下層社会の困窮は、軍事クーデターによる軍部の台頭、さらには破滅的な戦争へと突っ走らせるきっかけをつくった。

それでも、濃口雄幸の経済政策を、国民に不人気な政策を遂行しようとしたとして評価する向きもある。人気作家の城山三郎も、「男子の本懐」を貫いて凶刃に倒れたヒーローとして扱った。さらに以前に蔵相を務めた松方正義の評価も高く、松方財政は意図的なデフレ政策によって財政を再建し、産業基盤を整え、日清日露の大戦に勝利する陰の立役者として扱われてきた。つまり、デフレという国民の痛みをともなう政策を、国の将来のために敢えて行ったのは立派だと言うのである。しかし、安達氏によると、現代のマクロ経済学の視点から当時の財政運営を評価し直すと、松方正義の前の大隈重信蔵相のときに、すでにインフレは沈静化してきており、わざわざデフレ誘導の政策を採る意味はなかったという。国民に無用の痛みを与えた部分も少なくなかったのである。

インフレで物不足が起きている状況では、国民も政府も質素倹約を実践し、総需要を減らすことが、インフレの沈静化、ひいては適度な成長の維持につながるだろう。しかし、デフレで物が余っている状況で、質素倹約を励行したりすれば、ますます貧しくなってしまうだけである。それでも、松方財政はデフレという代償を払うことで、財政を立て直したのだから、痛みの意味がそれなりにあったと言えるだろう。ところが、この十数年にわたる日本の状況は、デフレを引きずり続けた上に、財政赤字を膨らませてきたという最悪のものだった。それというのも、金融施策が財政政策と逆向きに走るといった前代未聞の政策的混乱が起きてしまったためである。

先にも見てきた通り、七〇年代のオイルショックによる「狂乱物価」に手を焼き、八〇年代の後半には、バブル(資産インフレ)を発生させたことに懲り九日銀は、インフレに対して過敏ともいえる対応をし、むしろデフレになることを歓迎した。インフレ恐怖症とでもいうべき心理状態によって、その後、経済が持ち直しかけると、またインフレやバブルが再来するのではないかとの恐れから、デフレ政策にシフトし、その結果、日本経済の体力をどんどん弱らせていったのである。

その結果、本来、日銀による金融政策で対処すべき問題に、財政政策で対処しなければならなくなり、財政赤字ばかりを増やしただけでなく、円高を招くこととなった。景気が良くなりかけると、円高がやってきて、台なしにするという愚かしい状況を、性懲りもなく繰り返した挙げ句、経済を成長軌道に戻すこともできなかった。それどころか、財政政策によって景気が上向きかけると、金融政策でその効果を撒してしまうということさえ行われたのである。判断ミスに気づいて、金融緩和を行ったときには、日本経済は消耗し、すっかりデフレ体質に取りつかれていたため、一向に本格的な回復には至らず、結局十年もデフレが続くことになってしまった。